
人類とAIの歩み:エキスパートシステムと第二次ブーム(1980年代)──「知識は力」の発想
著者: 管理者 / 2025-08-16 (更新: 2025-08-16)
失われた信頼を、取り戻すために
1970年代、AIは「冬の時代」に突入しました。過剰な期待に対する失望が広がり、資金も注目も激減。しかし1980年代に入ると、そのAIに再び光が当たり始めます。
そのきっかけとなったのが、「エキスパートシステム」と呼ばれる新たなアプローチでした。これは、「経験豊富な専門家の知識をAIに組み込む」という考え方に基づいています。
派手さはありませんでしたが、現実的かつ実用的なアプローチで、AIはビジネスや産業の現場に少しずつ入り込んでいくようになります。
エキスパートシステムとは何か?
エキスパートシステムとは、医師やエンジニアなど専門家の「知識」と「判断のプロセス」をルール化し、それをコンピュータに実装したプログラムのことです。
たとえば、ある症状が見られたとき、どのような病気が疑われるか──その推論の手順や条件を「if(もし〜ならば)」のルールとして組み込み、AIに診断をさせる。こうした仕組みは、従来の単純な推論とは異なり、実務の現場で“使える”可能性を感じさせました。
有名な事例としては、スタンフォード大学が開発した「MYCIN(マイシン)」があります。これは、感染症の診断と治療方針の提示を目的としたエキスパートシステムで、人間の医師に匹敵する判断を下せるとされました。
なぜ、再び注目されたのか?
エキスパートシステムが支持された背景には、いくつかの現実的な理由があります。
まず、計算機の性能が向上し、より多くの知識やルールを扱えるようになったこと。そして、形式的な推論ではなく「具体的な業務課題」にフォーカスしたことで、導入のメリットが明確だったことです。
とりわけ注目されたのが、企業の意思決定支援や品質管理、財務診断、さらには軍事分野での応用。専門家の判断を模倣できれば、属人化したノウハウを共有できるという期待がありました。
こうしてAIは、抽象的な「知能の模倣」から、実務に役立つ「知識の活用」へと軸足を移したのです。
AIが「道具」として評価された瞬間
この時代、AIは初めて“社会に受け入れられる技術”としての評価を受け始めます。ルールベースではあるものの、診断・分析・選択肢の提示といった支援機能は、多くの現場で有効でした。
特に産業界では、「AIを使って生産性を上げる」「意思決定を合理化する」という発想が広がり、エキスパートシステムを導入する企業も増加。AIは「夢」から「道具」へと、その立ち位置を変えていったのです。
またこの流れは、AIという技術を「社会実装」の文脈で語る最初の成功事例とも言えるでしょう。
だが、「知識」には限界があった
しかし、第二次ブームも長くは続きませんでした。最大の理由は、知識ベースを維持・更新するコストの高さと柔軟性のなさです。
エキスパートシステムは、すべてのルールを人間が手作業で入力する必要がありました。そのため、新しい情報や例外が増えるたびに修正が必要で、規模が大きくなるほど管理が困難に。
さらに、「知識」は状況によって変わるもの。人間のように文脈や感覚で柔軟に判断することができないシステムでは、対応できない問題が増えていきます。
こうして、再び「ルールの限界」が浮き彫りとなり、徐々にAIへの関心はしぼんでいきました。
次なる鍵は「学習」だった
エキスパートシステムの限界は、「知識はあっても、自ら学べない」という一点に集約されます。
人間は、経験から学び、応用し、ルールにない状況でも対応できます。しかし、当時のAIにはその柔軟性がなかった。だからこそ次に求められたのが、「AI自身が学ぶ力」でした。
このニーズが、のちの機械学習やニューラルネットワークの復活、そして「データからの学習」という大転換を促すことになります。
つまり、第二次ブームの終焉は、静かに「第三の波」の到来を準備していたのです。
知識は力──だが、それだけでは足りない
1980年代、AIは一度“実用の現場”に入り込み、確かな足跡を残しました。エキスパートシステムは、「知識の力」を実証した成功例であり、「AIが社会に何をもたらせるか」を現場レベルで示しました。
しかし、AIが真に人間に近づくには、「知識を持つ」だけでなく、「学習する」「変化する」「理解する」能力が必要だったのです。
この教訓が、のちのディープラーニング革命への土台となり、AIが知識だけでなく“経験”を得ていく時代の扉を開けることになります。